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嘉祥寺は通称深草聖天(深草聖天)とも言い日本最初の歓喜天と言われる石碑が表参道に建って居ます。
歓喜天(かんぎてん)とは仏道の魔を拝する神とも言われ、頭は象で胴は人間の姿をし男女が抱擁して居る像が多くその為、秘仏とされているものが多く夫婦和合、子授けの神として信仰されている。 |
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嘉祥寺は天台宗の寺で仁明天皇の御霊を弔うために嘉祥3年(1850年)に清涼殿を移築して仏堂とし、年号にちなみ嘉祥寺とした真言宗の寺でした。
応仁の乱で堂宇は灰燼に帰し、江戸時代の寛文2年(1662年)安楽行院嘉祥寺として再興されました。 |
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小さなお寺ですが本堂は総ケヤキ造で釘が1本も使われていないといいます。
又境内に大きな供養塔が有りますが、これは安楽行院の十二帝供養塔だといわれています。
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深草聖天縁記、由緒の詳しくは境内掲示板で見てください。
嘉祥寺の門を真っ直ぐ細い路地を突き当たり右手に、JR奈良線の手前に十二帝陵があります。
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最初後深草天皇が祀られていたが伏見天皇の遺骨が祀られるようになってから北朝の十二柱の天皇を祀る様になりました。
法華堂には後深草天皇、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松,称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おおぎまち)、後陽成の十二帝と栄仁親王遺骨が安置されています。 |
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十二帝より約5分静かな住宅街の中に囲まれた中に54代仁明天皇の御陵があります。
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仁明天皇810年(弘仁1年)~850年(嘉祥3年)
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嵯峨天皇と橘嘉智子の第2皇子として生まれ経史に没頭し、漢音に通じ「群書治要」を始め多くの書を読み、書を良くし、淳和天皇の草書を好んみ、弓をよく射音楽にも優れ医学に関心が深かったが、贅沢を好み財を浪費したといわれる。 |
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参道は民家と民家の間に有り御陵の正面は見えませんが民家をぐるりと回ると駐車場がありそこから御陵正面が見ることが出来ます |
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参考までに伏見に有る御陵を紹介しますので回ってみられてはとおもいます。
在位 天皇名 住所 最寄駅
50代 桓武天皇(かんむ) 伏見区桃山町 京阪、近鉄丹波橋下車東へ1Km
54代 仁明天皇(にんみょう) 伏見区深草東伊達町 京阪藤森下車東へ1,1Km
60代 醍醐天皇(だいご) 伏見区醍醐古道町 京阪バス醍醐上の山町下車東へ0,5Km
61代 朱雀天皇(すざく) 伏見区醍醐御陵東裏町 京阪バス醍醐新町下車東へ0,5Km
72代 白河天皇(しらかわ) 伏見区竹田浄菩提院町 近鉄,市地下鉄竹田下車南西へ0,8Km
74代 鳥羽天皇(とば) 伏見区竹田浄菩提院町 近鉄,市地下鉄竹田下車南西へ0,6Km
76代 近衛天皇(このえ) 伏見区竹田浄菩提院町 近鉄,市地下鉄竹田下車南西へ0,5Km
85代 仲恭天皇(ちゅうきょう) 伏見区深草本寺山町 JR,京阪,市バス東福寺下車南へ1Km
89代 後深草天皇(ごふかくさ) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
92代 伏見天皇(ふしみ) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
93代 後伏見天皇(ごふしみ) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
北朝4代 後光厳天皇(ごこううげん) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
北朝5代 後円融天皇(ごえんゆう) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
在位 天皇名 住所 最寄駅
100代 後小松天皇(ごこまつ) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
101代 ?光天皇(しょうこう) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
103代 後土御門天皇(ごつちみかど) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
104代 後柏原天皇(ごかしはら) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
105代 後奈良天皇(ごなら) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
106代 正親町天皇(おおぎまち) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
107代 後陽成天皇(ごようせい) 伏見区深草坊町 京阪藤森下車東へ1km
122代 明治天皇(めいじ) 伏見区桃山町古城山 JR桃山下車東へ1Km
近鉄桃山御陵前東へ1,5Km |
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取材 伏見探検隊 野洲 孝夫 |